farisuの真実の紐解き

「預言者mebiusu」の息子の「真実の紐解き」のブログです。

「心の中に神様が入ってこられ、いらっしゃれば心が分かります。」

「心の中に神様が入ってこられ、いらっしゃれば心が分かります。
神様が心の中に入ってこられれば、壁も突き通して見ることができ、
じっと座りながら何千年前に死んだ聖人たちを運行させることもできます。」



>「天聖経」の冒頭、「真の神様」の「神様の本体」に掲載されている御言で、1972年2月17日に真のお父様が語られたものだ。でも、お父様が聖和されてから出された天聖経には掲載されていないようだ。


と、シムソンさんの本体のブログ「聖霊のもとにーメシヤの涙」(ブログ主、諸星くると)さんが、タイトルのヘッダーにも載せています。



ヘッダーには、始めから現在に至るまで、御言葉紹介ということでしたら、
2015年08月31日(月)タイトル『消された「神様とレバレント・ムーン」』の第4回目の
ブログ投稿で。紹介しています。


2019年には、


「でも、私たちが生きている感覚の中で、そのような協助霊が、肉体を共用しているという感覚を掴んだことがありますか?おびただしいほどの霊たちが、私の肉体の感覚器官に繋がっているのですが、そんなことはまったく感覚できないと思います。夜の神様と真のお父様の関係においても同様です。夜の神様が生心に臨在されていても、臨在されているという感覚など、欠片ほども無いということです。


という主張をされ始めました。


「主張」のずれがあるように思いますが、ご自分の原理観、信仰観ですので、別に私にとやかく言われる筋合いはないと言われるでしょう。


面白いことを発見しました。


ブログ「愛と心情-真のお父様が今伝えたいこと」のタイトル「真のお父様の聖霊と一対一で話せるように訓練されたことこそ私の聖霊体験です!
と書かれていますが、不思議なことに、


家庭平和協会 ランキング(INポイント順)」には、


「私の信仰生活40年間がそのまま聖霊体験であり、究極の聖霊体験は時が来たら証しします!」



となっています。


どのようにすれば、違うタイトルを、載せることができるのか、テクニックに関しては、どうでもいいですが、色々技術的にも詳しいと思いました。


「諸星くるとさん」のブログ「聖霊のもとにーメシヤの涙」、もう一つのペンネーム「シムソンさん」のブログ「愛と心情-真のお父様が今伝えたいこと」は、「サンクチュアリ教会 ランキング」を見てみると、



となっていました。


もっと、「サンクチュアリ教会」のシックに、「主張」が「賛同」されているのかと思っていましたが、そうでもないようですね。少し安心しました。


今回、タイトル「真のお父様の聖霊と一対一で話せるように訓練されたことこそ私の聖霊体験です!」の投稿で指摘したいことは、


「私に臨在しているのは、夜の神様ではなく、昼の神様であり、それは聖霊の働きで現れます。」


「神様が取ることのできる条件が整うと、私の心情を形成している聖霊とは別の働きをする、真のお父様の聖霊が現れます。」


「聖霊は私を形成しています。私の意志となって現われ、私の心情となって顕現します。つまり、天一国主人であれば、その方自身が昼の神様の顕現者です。昼の神様の場合、臨在するとは顕現者となるということです。」


「聖霊を通じて永遠普遍の夜の神様と授受作用できます。しかし、夜の神様の神格と一対一で対する時、夜の神様はお父様の聖霊となって現われます。」


「昼の神様の顕現者であり、天一国主人である私は、夜の神様が生心に臨在される真のお父様を通じて、はじめて夜の神様と一対一で授受作用できるのです。夜の神様が私に臨在するのではないのです。お父様を通じてこそ、夜の神様と主体と対象として授受作用し、愛を分かち合うことができるのです。」


は、「原理講論」で取れている「原理観」、


「被造物はすべて、無形の主体としていまし給う神の二性性相に似た実体に分立された、神の実体対象であることが分かった。このような実体対象を、我々は個性真理体と称する。人間は神の形象的な実体対象であるので、形象的個性真理体といい、人間以外の被造物は、象徴的な実体対象であるために、それらを象徴的個性真理体という。
 個性真理体は、このように神の二性性相に似た実体として分立されたものであるがゆえに、それらは、神の本性相的男性に似た陽性の実体と、その本形状的女性に似た陰性の実体とに分立される。」


神の本性相的男性に似た陽性の実体=アダム
その本形状的女性に似た陰性の実体=エバ


また、


(2) ロゴスの二性性相から見たイエスと聖霊 に、


「アダムが創造理想を完成した男性、すなわち生命の木となり、エバが創造理想を完成した女性、すなわち善悪を知る木となって、人類の真の父母となったならば、そのときに、神の三大祝福が完成され、地上天国は成就されたはずであった。」


と書かれています。


キリスト論、第四節 重生論と三位一体論に


「霊的な真の父であるイエスと、霊的な真の母である聖霊との授受作用によって生ずる霊的な真の父母の愛を受けるようになる。」


とも書かれています。


「地上天国は実体の真の父母と共に暮らす所であり、天上天国は永遠なる霊的な『神様父母』と共に暮らす所です。…アダム・エバが天上天国に上がっていけば、彼らが神様の位置に立つのです。そうして神様が、実体を着たアダム・エバの体として変化した、霊的な主体的主人公として現れるようになるのです。霊界に行くようになれば、『神様お父様』だけいるのではないのです。『神様お母様』がいるようになる、ということです。お母さん、お父さんなしに生命体が生まれ得ますか?そのようなお母さん、お父さんのように、アダム・エバの背後には、神様が分かれて出てきて、一つになっているのです」(1977.1.1)


と全く違う新しい、独自の「原理観」であるといわざるを得ません。


アダムにも「個性完成」の責任分担があり、エバにも「個性完成」の責任分担があるということです。


「真のお父様の聖霊」と言われていますが、


(1) 重生の使命から見たイエスと聖霊 に、


「ところで、父は一人でどうして子女を生むことができるだろうか。堕落した子女を、善の子女として、新たに生み直してくださるためには、真の父と共に、真の母がいなければならない。罪悪の子女たちを新たに生んでくださるために、真の母として来られた方が、まさしく聖霊である。ゆえに、イエスはニコデモに、聖霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることができない(ヨハネ三・5)と言われたのである。


このように、聖霊は真の母として、また後のエバとして来られた方であるので、聖霊を女性神であると啓示を受ける人が多い。すなわち聖霊は女性神であられるので、聖霊を受けなくては、イエスの前に新婦として立つことができない。また、聖霊は慰労と感動の働きをなさるのであり(コリント・一二・3)、エバが犯した罪を蕩減復帰されるので、罪の悔い改めの業をしなければならないのである。さらに、イエスは男性であられるので、天(陽)において、また、聖霊は女性であられるので、地(陰)において、業(役事)をなさるのである。」


とあります。


「真のお父様の聖霊」という言葉は、「非原理的造語」であるといわざるを得ません。


最期に、2015年09月17日(木)にタイトル「神様の精子に真の愛と生命を注ぐ「母性」
に、


その愛の環境に誕生する、主体と対象として、男性アダムと女性エバが構想された。夜の神様の二性性相を、男性要素を強調した存在と、女性要素を強調した存在に分けて誕生させるわけではない。アダムとエバの両方に臨在し、愛を実感しようとするのであれば、それは神様の自己満足・自慰行為となってしまうではないか。夜の神様の本体で、絶えずアダムとエバからくる愛の刺激が入り乱れて、それこそ同じ偏在するもう一人の神を創造したのと似た状況になってしまう。それでは、神様でも一日で目が回ってしまうと、真のお父様の御言にある。


とありますが、


六) すべての存在が二性性相になっている理由
 

「いかなるものでも、存在するためには、必ずある力を必要とするようになるが、その力は授受作用によってのみ起こる。けれども、いかなるものも単独で授受することはできないので、それが存在するための力を起こすには、必ず授受作用ができる主体と対象との二性性相として存在しなければならない。
 また直線上の運動においてはいつかは終わりがこなければならないので、このような直線運動をしている存在は永遠性をもつことができない。それゆえに、いかなるものでも、永遠性をもつためには回転しなければならないし、回転するためには主体と対象が授受作用をしなければならない。それゆえに、神も永遠性をもつために、二性性相としていまし給うのであるし、神の永遠なる対象である被造物も永遠性をもつためには、神に似た二性性相として存在しなければならない。そして、時間と周期的な輪廻とによって、永遠性を維持しているのである。」


とあるように、


『神様お父様』と『神様お母様』が愛し合うことができるようになり(永遠性をもって)
また、アダム・エバの子孫たちからの愛の刺激によって、永遠的に幸福感を実現するということで、


「アダムとエバの両方に臨在し、愛を実感しようとするのであれば、それは神様の自己満足・自慰行為となってしまうではないか。」


という見解は、全くの的外れの見解であることが解かります。


「心情」という言葉をよく使いますが、頭でイメージしたものでは、「心情」も「原理」も理解できないと思いますが。


そうなると、ご自分で、「心情」という概念も「原理」も作り上げてしまうようになってしまいます。


「原理」を軽んじないで、よく理解するよう、努めることをおススメします。


申し訳ありませんが、これ以上、「諸星くるとさん」「シムソンさん」とお付き合いしても、時間が奪われてしまうだけですので、一ヶ月に一回とか、半年に一回とか、お付き合いするようにします。


自分自身、「原理」や「信仰」を見直すことができましたことを感謝します。


人のことを言えませんが、もう少し、「サンクチュアリ教会」のシックの皆さんに受け入れられるような「信仰観」「原理観」を持たれるようにされたほうがいいのではないでしょうか。




クリックお願いします。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭平和協会へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する