「聖霊」と連呼しながら、「聖霊体験」はしたことがないのだろうか。
連続の投稿となります。
「神様はfarisuさんを用いて語られ、三位一体の核心を歴史上初めて解明する土壌を創られる!」に、
「私たちが肉体をもって実感した肉的五感の感覚は、霊体の生心に伝えられることによって心情を形成して行きます。その私たちに協助している霊たちも、私たちの肉体の肉的五感を共有しているということです。
でも、私たちが生きている感覚の中で、そのような協助霊が、肉体を共用しているという感覚を掴んだことがありますか?おびただしいほどの霊たちが、私の肉体の感覚器官に繋がっているのですが、そんなことはまったく感覚できないと思います。夜の神様と真のお父様の関係においても同様です。夜の神様が生心に臨在されていても、臨在されているという感覚など、欠片ほども無いということです。
それでは、どのような関係性をもって、真のお父様は夜の神様の存在を確認し、授受作用するのかということが問題になります。そこに、三位一体の本質があるのです。」
この文章を読んで、
「聖霊」「聖霊」と連呼する割には、
「夜の神様と真のお父様の関係においても同様です。夜の神様が生心に臨在されていても、臨在されているという感覚など、欠片ほども無いということです。」
と、断定していますが、
私を含めて、多くのシックの皆さんは、何らかの「聖霊体験」をしています。
様々な体験で、内容は違うかも知れませんが、私がした、体験のように、神様が
私の心(「生心」)に入ってきたり、全身が、神様の愛で包まれるというような体験をしていると思います。
私の場合は、四方八方から神様が私の心に入り、
「私は、ここにいるじゃないか。強く雄雄しくありなさい。」
とはっきり言われました。
私は、神様が、私の「生心」に一瞬かも知れませんが、臨在されたことを実感しました。
それは、「神様」じゃない、錯覚だ!という方もいると思いますが、
逆に、教会に入る前に、ある駅で、電車を待っているとき、やはり、四方八方から、「焦燥感」が「私の心」に入ってきて、私は、「ある病気」になってしまいました。
「私の心」は、「生心」じゃないと主張するのも自由です。
お祈りしているときに、神様が降りてくるということなど、幾度かの体験をしています。
私が思うに、「生心」は、「神様」も「サタン」も臨在できる「場所」だと思います。
本来は、サタンが存在しないので、「神様」しか、「臨在」できないと思いますが。
『御父様の「生心」に夜の神様が臨在されて、臨在されているという感覚がない。』
ということは、私の経験上、ありえないことであると思います。
そのような体験をしたことがなく、「頭」でイメージしたことを、言葉にしているだけでしたら、そのようなことが言えるとは思います。
多くのシックは、様々な「霊的体験」をしています。
「夜の神様と真のお父様の関係においても同様です。夜の神様が生心に臨在されていても、臨在されているという感覚など、欠片ほども無いということです。」
この文章を読んで、「全くその通りだ。」というシックがどれほどいるでしょうか。
信仰が長い方からすれば、随分、薄っぺらな事を、もっともらしく言われる方だな、と思うでしょう。
ブログ主さんに、聞きたいです。
本当に、神様が、あなたの「こころ(生心)」に降りてきて、一瞬でも、臨在されたという経験がないのですか。
「御父様」は、そんな小さく、弱い、「霊的感性」しか持たれていないのでしょうか。
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