farisuの真実の紐解き

「預言者mebiusu」の息子の「真実の紐解き」のブログです。

「御父様」お1人では、「真の父母」にはなれません。

サンクチュアリ教会のカテゴリーに参加しているブログ「聖霊とともに―メシヤの涙」のブログ主さんが、ブログ「愛と心情-真のお父様が今伝えたいこと」というブログを立ち上げて、今回、「シムソンは微妙に原理理解がずれ、こじ付けであり、明らかに間違いだという有難い記事が発信された!」で、私の投稿への反論をされています。


私は、仕事が忙しく、じっくり、論議することができませんので、気長に、一つ一つ、確認していきたいと思います。


話は、変わりますが、今日、申し込みしていた「郭錠煥先生の本」が来ました。


思っていた以上に、内容が多い厚い本となっていました。


少し、読み始めましたが、読みきるには、時間がかかりそうです。


いったい、統一教会に何が起きたのかを知るには、とても、貴重な本となると思いますが、反顕進様派からすれば、すべて、でっちあげだと言って終わるのは、目に見えていますが、現在、反顕進様であっても、将来、「真実」を知りたいと思うようになった時、その方にとって、とても、貴重な本となると思います。


「一人でも「真の父母」である真のお父様が私たちの父であるように、」


という表現は、


「神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。」


という「原理講論」の「創造原理」に出てくる、「神様の定義」を想起させます。


しかし、


 シムソンさんが言われる、


【親と言う概念で捉えることはもちろんですが、それでは漠然としています。父の心情とともに母の心情も体恤した愛の人格者となるということです。一人でも真の父母とは、父母の心情の体恤者であるということです。】


【「総称」というのも漠然としています。再度書き留めますが、父の心情とともに母の心情も体恤した愛の人格者になるということです。それも「真」とありますから、神様の心情の動機と同じ衝動から発せられる父母の愛の心情ということです。】


というご説明は、ちょっとずれているような気がします。


御父様は、アダムです。アダム・エバではありません。


「被造物はすべて、無形の主体としていまし給う神の二性性相に似た実体に分立された、神の実体対象であることが分かった。このような実体対象を、我々は個性真理体と称する。人間は神の形象的な実体対象であるので、形象的個性真理体といい、人間以外の被造物は、象徴的な実体対象であるために、それらを象徴的個性真理体という。
 個性真理体は、このように神の二性性相に似た実体として分立されたものであるがゆえに、それらは、神の本性相的男性に似た陽性の実体と、その本形状的女性に似た陰性の実体とに分立される。」


神の本性相的男性に似た陽性の実体=アダム
その本形状的女性に似た陰性の実体=エバ


ということになります。


神の本性相的男性に似た陽性の実体=アダムに、「父の心情とともに母の心情も体恤した愛の人格者となるということ」が求められているのでしょうか。


「エバ」はどうでしょうか、
「父の心情とともに母の心情も体恤した愛の人格者となるということ」が求められているのでしょうか。


「一人でも真の父母とは、父母の心情の体恤者である。」


「アダム」は、「神の本性相的男性に似た陽性の実体」としての「個性完成」を願われており、
「エバ」は、「その本形状的女性に似た陰性の実体」としての「個性完成」を願われているのではないでしょうか。


「個性完成したアダム」と「個性完成したエバ」が、夫婦となり、子女を繁殖することにより、「父母」となるのではないでしょうか。


「真の父母」は、「真のアダム」と「真のエバ」が、「夫婦」となり、「真の子女」を地上に繁殖することにより、「真に父母」になるのではないでしょうか。


「真のアダム」がどんなに頑張ったとしても、「真のエバ」いなければ、「真の父母」になれないことは、道理ではないでしょうか。


「父の心情とともに母の心情も体恤した愛の人格者」


とありますが、響きはいいですが、「アダム」が「父の心情」と「母の心情」を「体恤」することは可能でしょうか。


「アダム」にも「母性」があり、「エバ」にも「父性」があるのかも知れませんが、その「母性」、「父性」は「属性」といわれるものではないでしょうか。


「アダム」に「エバ」の持つ「母性」をそのまま、「体恤」することは、不可能です。


だから、「エバ」が存在するのです。存在する意義があるのです。


「アダム」と「エバ」は違う「心情・個性・性質」があるのですから、「アダム」が、「本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体」となることは、非原理的見方です。


『「御父様」お1人では、「真の父母」にはなれません。』


「エバ」は、「アダム」が1人でも「真の父母」になるための「手段でも道具でも」ありません。


「エバ」は「アダム」が「真の父母の真の父」となるための「必須条件」です。


「アダム」は、「エバ」が「真の父母の真の母』となるための「必須条件」です。


「真のアダム」と「真のエバ」が揃って「真の父母」となるわけです。


「地上天国は実体の真の父母と共に暮らす所であり、天上天国は永遠なる霊的な『神様父母』と共に暮らす所です。…アダム・エバが天上天国に上がっていけば、彼らが神様の位置に立つのです。そうして神様が、実体を着たアダム・エバの体として変化した、霊的な主体的主人公として現れるようになるのです。霊界に行くようになれば、『神様お父様』だけいるのではないのです。『神様お母様』がいるようになる、ということです。お母さん、お父さんなしに生命体が生まれ得ますか?そのようなお母さん、お父さんのように、アダム・エバの背後には、神様が分かれて出てきて、一つになっているのです(1977.1.1)




『「御父様」お1人では、「真の父母」にはなれません。』


ということが解かりましたか?



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