1966年に発刊された「原理講論」に、「独生女」の言葉と「韓鶴子」の名前がどこにも無い不思議?
「本来、旧教と新教が一つになって先生を受け入れていたら、今のオモニはオモニになれなかったでしょう。聖進のオモニがそのまま維持されていたことでしょう。」
(み言選集、337巻p18、2000年10月16日)
「今まで母子協助して復帰摂理をしましたが、これからは父子協助時代です。アダムさえ堕落しなければ、エバはいくらでも創ることができるのです。」
資料:み言選集 311巻192ページ 1999.09.04 <環境創造の能力者となれ
上記の御言葉は、「独生女』という存在が、「固定的存在」ではなく、「相対的存在」であることを示しています。
「預言者mebiusuの独り言」タイトル『1966年に発刊された「原理講論」に、「独生女」の言葉と「韓鶴子」の名前がどこにも無い不思議?』を見てみましょう。
・5月1日 韓国において、『聖書』の奥義を解明したとされる教理解説書『原理講論』の初版が出る。
とあります。
御父様とお母様の御聖婚は、1960年に行われています。
「原理講論」の「第七章 キリスト論」の「第一節 創造目的を完成した人間の価値」の「(一) 生命の木復帰から見た完成したアダムとイエス」に、
「堕落した人間は、彼自身の力では、到底、生命の木に復帰することができないので、ここに必ず、創造理想を完成した一人の男性が、生命の木として来られて、万民が彼に接ぎ木されなければならなくなっている。このような男性として来られる方が、すなわち黙示録二二章14節に、生命の木として表象されているイエスなのである。」
また、
「第二節 創造目的を完成した人間とイエス」、「(二) 創造目的の完成から見た人間とイエス」に、
『ロマ書五章19節には、「ひとりの人(アダム)の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとり(イエス)の従順によって、多くの人が義人とされるのである」と記録されている。また、コリントI一五章21節には、「死がひとりの人(アダム)によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人(イエス)によってこなければならない」と表明されている。』
と書かれています。
「創造理想を完成した一人の男性が、生命の木として来られて、万民が彼に接ぎ木されなければならなくなっている。このような男性として来られる方が、すなわち黙示録二二章14節に、生命の木として表象されているイエスなのである。」
ということで、「再臨のイエス」が、生命の木として来られて、万民が彼に接ぎ木されるということです。
次に、「第四節 重生論と三位一体論」、「(一) 重生論」、「(1) 重生の使命から見たイエスと聖霊」に
「アダムとエバが創造理想を完成して、人類の真の父母となったならば、彼らから生まれた子女たちは原罪がない善の子女となり、地上天国をつくったであろう。しかし、彼らは堕落して人類の悪の父母となったので、悪の子女を生み殖やして、地上地獄をつくることになったのである。したがって、イエスが、ニコデモに言われたみ言どおり、堕落した人間は原罪がない子女として新たに生まれ直さなければ、神の国を見ることができないのである。
我々を生んでくださるのは、父母でなければならない。それでは、堕落した我々を原罪がない子女として生んで、神の国に入らせてくださる善の父母は、いったいどなたなのであろうか。原罪のある悪の父母が、原罪のない善の子女を生むことはできない。したがって、この善の父母が、堕落人間たちの中にいるはずはない。それゆえに、善の父母は、天から降臨されなければならないのであるが、そのために来られた方こそがイエスであった。彼は堕落した子女を、原罪のない善の子女として新しく生み直し、地上天国をつくるその目的のために真の父として来られた方であった。」
「ところで、父は一人でどうして子女を生むことができるだろうか。堕落した子女を、善の子女として、新たに生み直してくださるためには、真の父と共に、真の母がいなければならない。罪悪の子女たちを新たに生んでくださるために、真の母として来られた方が、まさしく聖霊である。ゆえに、イエスはニコデモに、聖霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることができない(ヨハネ三・5)と言われたのである。」
「このように、聖霊は真の母として、また後のエバとして来られた方であるので、聖霊を女性神であると啓示を受ける人が多い。すなわち聖霊は女性神であられるので、聖霊を受けなくては、イエスの前に新婦として立つことができない。」
とありますが、
「原罪のある悪の父母が、原罪のない善の子女を生むことはできない。したがって、この善の父母が、堕落人間たちの中にいるはずはない。それゆえに、善の父母は、天から降臨されなければならないのであるが、そのために来られた方こそがイエスであった。彼は堕落した子女を、原罪のない善の子女として新しく生み直し、地上天国をつくるその目的のために真の父として来られた方であった。」
とありますが、
なぜ、
「善の父母は、天から降臨されなければならないのであるが、そのために来られた方こそがイエスであった。」
と書かれているのでしょうか。
「イエス」は、「アダム」です。
なぜ、
「善の父母は、天から降臨されなければならないのであるが、そのために来られた方こそがイエスとエバ(聖霊)であった。」
と書かれていないのでしょうか。
「創造理想を完成した一人の男性が、生命の木として来られて、万民が彼に接ぎ木されなければならなくなっている。このような男性として来られる方が、すなわち黙示録二二章14節に、生命の木として表象されているイエスなのである。」
つまり、
「この善の父母が、堕落人間たちの中にいるはずはない。」聖霊の実体である「真の母」も「創造理想を完成した一人の男性」によって「堕落人間たちの中」から「復帰」されて、「善の母」となり、「イエス」と共に「真の父母」になり、原罪のない善の子女を生むということではないでしょうか。
1997年、「お母様の7年路程」を「お母様」は勝利されます。
第一、第二のお母様が失敗されて、第三のお母様が、「7年路程」を歩まれている1966年には、お母様を、「独生女」として、聖霊の実体である「真の母」として、「韓鶴子」の名前を「原理講論」に載せることは、当然、できなかったということは理解できますが、
もし、お母様が、「母胎から血統転換」されている、「独生女」として、聖霊の実体である「真の母」として、御父様に認定されていたとしたら、「原理講論」に、「お母様」の証があってもいいのではないでしょうか。
「原理講論」の 「総 序」にでも、あるいは、「キリスト論」にでも、「韓鶴子お母様の証」があってしかるべきではないでしょうか。
「母胎から血統転換」されている、「独生女」であるという主張は「お母様」がされているもので、「原理講論」においては、お父様に認定されたことではないということは言えると思います。
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「原理講論」、「第七章 キリスト論」、「第三節 堕落人間とイエス」に、
「したがって、人間は堕落した状態にとどまっている限り、何らの価値もない存在であるが、真の父母としてのイエスによって重生され、原罪を脱いで善の子女になれば、イエスのように創造目的を完成した人間に復帰されるのである。」
「お母様」が「血統転換、私は胎中にいる時からそうなのです。」という御言葉が、実現される道は、「神様」が、お母様が「無原罪」でこの地上にお生まれになるという特別な摂理をされるという解釈ではなく、「再臨のメシア」として来られた「お父様」と「ある女性」との関係において、その女性が「原罪を脱いで善の子女の立場」に立ち、「御父様」と「善の立場に立った女性」との間に生まれたのが、「お母様」であったと理解する方が、「原理」と矛盾しないと思われます。「3日儀式」は、その工程を象徴的に実施しているわけです。
「罪悪の子女たちを新たに生んでくださるために、真の母として来られた方が、まさしく聖霊である。」とありますが、その「聖霊」の実体となられたのが、「お母様」であると見るべきであると思います。
その「聖霊」は、お母様の「生心」に臨在しているので、「お母様」に問題が起きれば、その「聖霊」は、お母様から離れて天に帰るか、次の「生心」に臨在できることができるふさわしい「エバ」が存在したならば、その「聖霊」は、その方の「生心」に臨在し、その方は、「聖霊の実体」となられます。
第一のお母様も「再臨のメシア(独生子)の相対であるので、「独生女」でしたが、失敗したために、「聖霊」は、第二のお母様、そして、現在の「韓鶴子お母様」の「生心」に臨在し、「御父様」の「独生女」となられましたが、
様々理由により、
「原罪のある悪の父母が、原罪のない善の子女を生むことはできない。したがって、この善の父母が、堕落人間たちの中にいるはずはない。それゆえに、善の父母は、天から降臨されなければならないのであるが、そのために来られた方こそがイエスであった。彼は堕落した子女を、原罪のない善の子女として新しく生み直し、地上天国をつくるその目的のために真の父として来られた方であった。」
が、「再臨のイエス=真の御父様」ということを受け容れられなくなってしまったために、
「原罪のある悪の父母が、原罪のない善の子女を生むことはできない。したがって、この善の父母が、堕落人間たちの中にいるはずはない。それゆえに、善の父母は、天から降臨されなければならないのであるが、そのために来られた方こそが「韓鶴子」であった。彼女は堕落した子女を、原罪のない善の子女として新しく生み直し、地上天国をつくるその目的のために真の母として来られた方であった。」
という「非原理的御言葉」が存在するようになってしまったのだと思います。
現在の「お母様」にとって「御父様」が「メシアであっても無くても」、ご自分が「真の父母」であると思われているので、「原理」を説いても難しいと思います。
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