farisuの真実の紐解き

「預言者mebiusu」の息子の「真実の紐解き」のブログです。

farisuの「真実の紐解き」、「お母様」は「無原罪」でお生まれになられた。が。

私、farisuが、「お母様」の「独生女」の「真実」を紐解きます。


「お母様」は「無原罪」でお生まれになられた。しかし、「独生女」としてお生まれになられたのではなく、「独生子」とご聖婚することにより、「独生女」の立場に立たれた、という見解です。
つまり、「無原罪」でお生まれになられた「お母様」=「独生女」ではないということがまず、上げられます。


「本来、旧教と新教が一つになって先生を受け入れていたら、今のオモニはオモニになれなかったでしょう。聖進のオモニがそのまま維持されていたことでしょう。」
(み言選集、337巻p18、2000年10月16日)


この御父様の御言葉を見ても、そのことが分かります。


「聖進のオモニがそのまま維持されていた」という御言葉は、「独生子」の相対である「独生女」は、「聖進のオモニ」がなられていたということになります。


このことで何が分かるかというと、「独生女」は、あらかじめ特定の方に「決まっている立場」ではなく、摂理的事情によって「変わる」ということです。


「第一のお母様、聖進様のオモニ」が失敗されたので、次に「第二のお母様」を御父様の「独生女」として立てられようとされたが、それも失敗したため、「第三のお母様である観鶴子お母様」が「独生子」の相対である「独生女」として立てられたということです。(第二のお母様と言われている「金明姫・キム・ミョンヒ」は、御父様と聖進様のオモニの離婚調停中に、関係を持たれ喜進様がお生まれていますので、婚姻届はもちろんされていないので、いわゆる「不倫」の関係であったということになりますが、お母様を三数的存在とするために、「第二のお母様として立てた」のではないかと思われます。)婚姻届を正式に出しているのは、「聖進様のオモニである崔先吉女史」と「観鶴子お母様」だけの2名となり、お母様は、その観点から見れば、「2数的存在」となります。


あくまでも、「アダムとエバ」の「主体」は、「アダム」であったように、「独生子」と「独生女」の「主体」は、「独生子」にあるという基本的原理的立場があることを排除してしまうことに、「お母様」の「独生女」の主張は、「サタン的」であるということになってしまいます。つまり、「お母様」は、「独生女」であるが、「サタン側」の「独生女」の立場に立たれているということがいえると思います。


「独生女」が、「独生子」に対して、「主管転倒」の立場に立たれているので、「お母様」は、「独生女」であるが、「サタン側」の「独生女」の立場に立たれているということです。


もしかしたら、「独生子」も摂理的事情において変わる「相対的存在」であるということも言えると思いますが、それを言っては、きりがないので、「御父様」は「独生子」という存在としてこの地上に生まれ、「独生女」は、「独生子」に対する「相対的存在」であるという結論が生まれます。


つまり、「お母様」は、第一、第二お母様の「摂理的事情」と「責任分担」の未完遂により、「独生子」の相対である「独生女」になれたということです。
(個人的には、「独生女」になれたけども、「2数的存在であるお母様」にサタンが入ったと思っています。)


次に、


まず、お母様が、「独生女」としてお生まれになられたという根拠に挙げられるのは、「お母様の家系は三代が一人娘だった」ゆえに、お母様は胎中にいる時から『血統転換』されていた、ということですが、「大母様」である洪順愛様には、弟がいます。


洪順愛大母様の家族構成は、


(父)洪唯一
(母)趙元模
(弟)洪順貞
(娘)韓鶴子


「洪順愛大母様」の母親である「趙元模」構成は証されていませんので、「趙元模」女史の兄弟構成が分かりません。


「お母様の家系は三代が一人娘だった」という内容には、単純に「娘1人」の家系が3代続いたということで、別に、弟がいてもいなくてもそのことは重要ではないという観点で、見ればそうですが、そのような家庭は、他にも多くいたのではないでしょうか。


純粋に三代、一人娘であったということと、母親と祖母が信仰的であったということから、「無原罪」の娘が生まれたと言うことであるならば、説得力もあるでしょうが、かなり、「こじつけ」的な説明ととらられてしまうと思われます。
「原理」的にも、「堕落」以降「メシアのための基台」を立てるために、悠久なる「復帰歴史」が「摂理」されてきましたので、基本的に「メシア=命の木=アダム」で、「善悪を知る木」は「エバ」を象徴していたので、
「命の木」である「メシア」が、降臨されて、そのメシアによって、「善悪を知る木」である「エバ」が復帰されるという復帰摂理の道筋があるので、「御父様もお母様の家系三代」の御言葉を語られていますが、この御言葉は、「お母様」を立てるリップサービスみたいなもので、実は、「お母様」は、「復帰歴史」の目的であった「メシア=再臨主=御父様」がまず、復帰され、そして、お母様が、ある経緯をもって、「無原罪」としてこの世にお生まれになられたということが、歴史的に信憑性の高い史実であったと思われます。


その事について、紐解いてみましょう。


預言者mebiusuの独り言の投稿「イエスは私生児か? 「お母様」は、私生児か?」をご紹介します。


「女メシア」としてお生まれになられた「お母様」は、


イエス様と生まれた経緯がよく似ています。


『イエスは私生児か?
・・・生前のイエスがユダヤ人からどう見られていたかについて、次に記そう。


当時のユダヤ人には姓がなかった。通常は自分の名の次にベン(ヘブル語)もしくはバル(アラム語)をつけ、次に父の名を置いた。正確ではないが、イエスがヨセフの子なら、イエス・ベン・ヨセフという言い方をする。この点、ロシヤ人の父称とやや似ている。いわばイワン・イヴァノヴィッチ・イワノフとはイワンの息子のイワンで、もしイワノフという姓がなければイエス時代のユダヤ人と同じ言い方になる。当然のことだが、私生児には父称はない。トルストイの『復活』で、カチューシャが法廷の人定尋問で父称をきかれ、顔を赤らめて「私生児でございます」という場面があるが、父称のある国では私生児であるか否かが名前を見ただけでわかる。・・・


父称が姓のかわりをする社会で私生児がすぐにわかるのはユダヤ人も同じであった。ではイエスは一体なんと呼ばれていたのか。マルコ福音書(六3)に「・・・この人は大工ではないか。マリアの息子・・・・・で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここの私たちと一緒にいるではないか」(傍点筆者)という言葉がある。この「マリアの息子」という言葉は私生児に対する軽蔑的な表現であると、シュタウファーはいい、この表現の例をタルムード(ユダヤ教文書)からあげている。私生児でも敬虔な生活をしている限り、その出生について何も言わないのが彼らの習慣だが、しかしその者が、不敬虔なまたは背教的な生活をしたときは、公然とその出生について誹謗するという。いわばイエスが普通の敬虔な大工であるときは何もいわないが、柄にもなく会堂で妙な説教などはじめると、途端に「マリアの息子ではないか」といった言葉が出てくる。こういう誹謗の言葉を後代が福音書に付加するとは思えないから、これは真正の伝承であろう。さらにシュタウファーはマタイ福音書十一章九節やルカ福音書七章三七節の「食をむさぼる者、大酒を飲むもの」というイエスへの誹謗の言葉も、私生児を表すと指摘している。これらのことは、イエスがヨセフの実子ではなかったこと、いわばヨセフは自分の子と認めず、周囲もそう見ていたことを示している。・・・


では、イエスは私生児なのか。ユダヤ教ははっきりとイエスを私生児とし、タルムードには「姦淫の女の息子」「娼婦の息子」とさえ言われている。まことにこまったことにマリアは、聖母とされるか姦婦・娼婦とされるかどちらかであって、それ以外に呼びようのない対象になっている。・・・


(「マリアは“処女”で“聖母”か」から)
『禁忌の聖書学』(新潮社 1992年)山本 七平著 


お母様の父親とされている、「韓承運氏」が、本来の父親でなく、御父様と御聖婚されることになってからか、なられてから、決まった(決められた)「父親」であったとしたら、


「お母様」も「イエス様」と同じように、「私生児」の立場で、この世にお生まれになっていると言えるのではないかと思います。


ルカによる福音書1章56


「マリヤは、エリサベツのところに三か月ほど滞在してから、家に帰った。」


1973年洪順愛大母様の証


『私と二月の終わりに出会い、三月の終わりに真のお母様がおなかの中に宿りました。』


(東京・松濤本部での洪順愛大母様の証 1973年12月21日)



「お母様」が、御父様の妻に、第一のお母様の失敗で、妻になられましたが、


「イエス様」と同じようなお立場でこの世に生を受けられた「お母様」は、「再臨主」の妻となる「運命」と「再臨主」の妻ではないが、「再臨主」の血統を持つ方として、「神様の摂理」に対して重要な御使命を持たれ、それを果たすべき「運命」を持たれて、お生まれになられたと思います。


「イエス様」が「無原罪」の立場でお生まれになられた「私生児」の立場であるように、


「お母様」も「無原罪」の立場でお生まれになられた「私生児」の立場であったと思います。


ついでに上記の投稿の前の投稿を載せておきます。
17歳までのお母様の「姓」は「韓」だったのだろうか? 1」です。


外祖母(趙元模)は、絶えず私に「お前のお父さんは、天のお父様だ」と言われました。その記憶しか思い出しません。「天のお父様がお前のお父さんだ」と言われていました。
 それで、父親と言えば、肉身の父のことを思わず、いつも天のお父様のことを思ったので、神様を思うと常に心温まる感じをもったのであり、外的に見れば人々がすぐには理解し難い環境で育ちましたが、特別な不平不満はありませんでした。いつも何かが私を包んでくれているような温かい感じがして、常にゆとりのある心で過ごしました。大母様やおばあさんにも、肉身の父親に対してや、またお二人がどうしてこのように暮らされるのかなどといった質問は全くしませんでした。』
(「真の御父母様の生涯路程10」より 真のお母様の証より)


『大母様やおばあさんにも、肉身の父親に対してや、またお二人がどうしてこのように暮らされるのかなどといった質問は全くしませんでした。』


お母様の「姓」は、「韓」となっていますが、お母様の父親が、「韓承運氏」であるということから、お母様の「姓」が「韓」ということになっています。



「ちゃぬの裏韓国日記」の「騙されるな!洪順愛大母様の証は教会の都合のいいように書き換えられている」の■関連記事一覧を一通り、読んでみると、



「大母様(洪順愛)と鶴子夫人の父親と言われている韓承運氏とは一度も同居したことがありません。長男の嫁として結婚したにも関わらず、儒教の韓国で同居しないなどとそんなことは絶対にありえません。
明らかに教会はお母様(鶴子夫人)の出生の秘密を隠しているのです。」



と主張される「ちゃぬ」さんの見解はかなりの説得力があります。


『2008年に出版された「「実録洪順愛大母様の生涯と信仰・忠心奉天の道」の内容と1941年8月24日の年表に注目してください。


1941年8月24日 黄海道延白郡濯〓糸嬰公立普通学校で教職生活(洪順愛の家からかなりの距離で行き来は無理)
★1943年   韓鶴子誕生(陰43.1.6)平安南道安州郡安州邑信義里26番地
1945年10月13日黄海道延白郡濯〓糸嬰公立普通学校退職
1945年11月1日 萬城公立普通学校転勤(教頭として在職 このとき平安北道に戻ってきている)


真のお母様(韓鶴子)を身ごもったときは、父といわれる韓承運氏は単身赴任で黄海道の延白の小学校に行っています。単身赴任は、終戦後の1945年10月13日迄続きます。ちょうど妊娠・出産のときは近くで勤務していないのです。


そして、文教祖が本格的に神霊集団(聖主教、腹中教等)を本格的に巡回しだしたのは1942年(満22歳)からで、韓承運氏の単身赴任の時期と重なるのです。


洪順愛大母様のいた平安北道安州と黄海道延白郡は週末夫婦をできるような距離ではありません。まして、1942年当時、電車もなく汽車の時代です。行き来は容易ではないのです。


私が言いたいのは、韓承運氏と洪順愛さんが容易に夫婦関係を持つ時間があったかと言うことです。一緒に暮らしていないのです。妻ならば赴任地について行って一緒に暮らすのではないでしょうか?
その頃は、洪順愛さんは聖主教、腹中教の進行に狂信的に没頭していたときです。そして、1933年ごろ、洪順愛さんが結婚したとされる時期は李龍道氏の神霊集団(新イエス教)に傾倒するのと重なります。その間10年間子供がいませんでしたし、聖主教とは、夫婦間の性生活を断つ「聖別期間」をする団体でした。そういう中で妊娠したとすれば、本当に娘の韓鶴子夫人の父は韓承運氏だったかという疑問が残るのです。


もし韓承運氏が洪順愛さんの夫ならば、別れたくなる気持ちも分かるような気がします。


韓承運氏が久しぶりに単身赴任の休みのときに帰ってきたら、随分長い間、性関係を持っていないのに妻はお腹が大きく身重(7ヶ月)」になっているのですから、驚くでしょう。一般的に考えて、自分の初めての子が、妊娠したのにたやすく離婚しないと考えるとこちらの推測が自然かと。これはあくまでも推測ですが。


しかし、本当に籍を入れて結婚していたかどうかも微妙です。戸籍は朝鮮戦争の後に、新たに作ったでしょうから。』


洪順愛大母様の証の内容です。


1977年出版「信仰と生活 第四集」
『お母様の父は李龍道牧師の弟子で啓示を受け「洪唯一という人の娘を嫁にもらえ。その子供が男なら天宙の王になる。女の子なら天宙の女王になる」というのです。そして私と二月の終わりに出会って三月の終わりにお母様をはらんだのです。
 
私の家系は七代が善の功労を積んできて、この三代は娘一人の家系であります。
 私には弟がいて、日本に留学していたので、私の親は婿養子としてお母様の父韓氏を迎えようとしてました。ところが主体性の強い彼は、それは出来ないと出ていってしまいました。お母様がお腹にいる七ヶ月目のことでした。お母様が生まれてからも、私の親がお母様を離さなかったので、私はそのまま別れてしまったというわけなのです。』

(洪順愛大母様の証1973年12月21日 東京教会)


さらに、韓鶴子夫人もこのように証言しています。


『私が生まれた時は、その当時、天から特別に準備された、名の知られた有名な牧師たちがいたのです。李龍道、李浩彬牧師、その他の牧師たちがいたと記憶しています。私のお母さんが洪氏であり、私のお祖母さんは趙氏ですが、お二人が、これらの牧師たちと大変近い間柄だったと聞いております。私のお母さんとお父さんが出会うようになったのも、天の啓示によってなされたことなのです。「お前たちが一緒になって、天が貴く用いることのできる子孫を生みなさい」ということで結ばれたのです。それが、お二人の方が出会うようになった動機だと聞いています。洪ハルモニの生涯は、啓示によって一生を生きてこられた方だと思います。既に亡くなったのですが、あの方の一生というのは、女性としては完全なる祭物の人生だったと思います。』
(「真の母のまなざし」より )


『篤実なキリスト教の信者として生活している人が、一時期、異端に傾倒する可能性は否定しませんが、一度「(血分けの)神霊集団」に籍を置いて、結婚や子供まで神霊集団の牧師に一任するような人であれば、今でも異端の信仰を続けているのではないのでしょうか。


現実、洪順愛大母様は死ぬまで神霊集団(統一教会含む)の信仰に没頭していました。


しかし、文教祖はイエスから啓示を受けたといわれる1936年(満16歳)から、李龍道氏が創設した「新イエス教(またはイエス教)」の熱狂的な信者でした。1936年は李龍道氏は1933年に33歳の若さで他界していましたので、その後は李浩彬氏が信仰を受け継ぎ「新イエス教」の代表者として教会維持運営していました。文鮮明教祖は、ソウル明水台にある「新イエス教」の熱心(狂信的?)な信者で、黒石洞の下宿から学校に通いながら教会に行っていました。ちなみに黒石洞の下宿の大家の女性も「新イエス教」の信者でした。


文鮮明教組が、1945年に前妻の崔先吉夫人と結婚式をしたときの主礼(司会の牧師)も「新イエス教」の李浩彬氏でしたし、文教組が本格的に神霊集団巡りをしたのは、1942年(満22歳)ですが、信仰は既に16歳から始まっていました。


問題は、韓承運氏は李龍道牧師の弟子だったかということです。韓鶴子夫人(お母様)も、「自分の父と母は李龍道牧師の主礼で結婚した」と証しています。


最近の教会の公式書籍では、洪順愛大母様と韓承運氏は「1934年3月5日」に結婚したことになっています。以前は1933年と注釈をつけていたものもありますが、最近はこの日付で統一しているようです。しかし、李龍道氏は1933年に亡くなっているため、1934年の結婚式の主礼を勤めるのは無理です。


『先般、李龍道牧師の嫁に当たるかたが来られたことをお母様にお話し申し上げると、お母様は「私の父母の主礼をしてくださったかたが、正に李龍道牧師なのです」と言われました。』
(統一家の誇りであるお母様 姜賢実の証)


そういった過去の話は、韓鶴子夫人(お母様)は、ほとんど祖母の趙元模から聞かされたいたようですが、祖母の趙元模は孫の韓鶴子には真実(出生の秘密)を話せない事情があったと推測できます。』


『韓承運氏は、教師の父親の影響を受けてか「教職(教師)の道」を献身的に全うし、韓国で勲章までもらうような模範的な教師でした。洪順愛さんと結婚したとされる1933年の前の、1930年(21歳)のとき母校の小学校の新人教師として赴任しています。


終戦後、1947年韓承運氏は同じ教師の女性と結婚(再婚?)しているのですが、長男の韓偉一は父、韓承運氏が戦前、北朝鮮から韓国に南下する前の内容を次のように語っています。


『解放前の先父の行跡については、私には知るすべがありません。ただ、親戚の人だちから聞いたところでは、青年時代はとても勉強ができたそうです。そして、教育の仕事に志があられて教鞭を執られ、篤実なキリスト教の信仰をされていたということを知っています。また、改革的な気質をもっていらっしゃったので、保守的な家門の中においては良い関係ではなかったということを聞きました。』
(真の御父母様の生涯路程 10)


また、南下してからの韓承運氏については


『第二に、教会の開拓に献身された。先生は、篤実なキリスト教の長老として、模範的な信仰生活をされた。校舎の片隅に小さな祈祷室を造り、毎日明け方の四時に起床して祈祷を捧げ、夕方にも瞑想と祈祷をされた。大声でなさるその祈祷は、一句一句筋が通っていて、ご利益的な内容よりも、天の栄光を頌栄し、創造世界を賛美する内容で一貫していた。特に賛美歌は「三千里半島、美しい山河」(韓国賛美歌三七一番、「三千里」は朝鮮半島の別称)を愛唱された。その意味を再確認するために、一番の歌詞をここに紹介する。』
(実録・洪順愛大母様の生涯と信仰)


ここで注目していただきたいのは、南下前も南下後も韓承運氏は一環して「篤実なキリスト教信者」だったということです。


なぜ、このようなことをわざわざ説明しているかというと、洪順愛大母様の証の中に「お母様(韓鶴子夫人)の父はキリスト教の異端の新イエス教会の李龍道の弟子」だと証言しているためです。』



1.洪順愛大母様の証言「お母様(韓鶴子夫人)の父はキリスト教の異端の新イエス教会の李龍道の弟子」は、偽りである可能性がある。



2.大母様(洪順愛)と鶴子夫人の父親と言われている韓承運氏の「結婚」自体が「捏造」の可能性がある。



『1973年の大母様(洪順愛)の証には、まったく韓承運氏の名前はでてきません。「お母様の父」が韓氏とも言っていません。1989年発行の「愛の世界」にも、韓承運氏の名前も、「韓氏」という名前も登場しないのです。


1995年霊界祝福が行われた当時は、「韓承雲」氏として紹介していましたが、2008年発行の「実録・洪順愛大母様の生涯と信仰」からは「韓承運」氏の名前に訂正されます。
実は名前もはっきりわからなかったのではないでしょうか。それが10年ものあいだ連れ添った夫婦でしょうか。』



お母様の「姓」が「韓」というのは、もしかしたら、お母様が、御父様と御聖婚されることになってからか、なられてから、決まった「姓」かも知れません。



「洪順愛大母様」は、生涯を通じ、御結婚はされていないのではないでしょうか。


お母様を娘とした「未婚のシングルマザー」であったと思われます。



もう少し、見ていきます。



続く。



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それでは、「お母様」は誰の子供なのか?


次回で、考察していきます。




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